Nishimura’s DNA受け継がれる西村のDNA
「いいものを造れ!」それが西村鐵工所に受け継がれるDNA
「いいものを造れ!」それが西村鐵工所に受け継がれるDNA
農業用肥料から 鍛冶へ
大正2年(1913年)以前、初代福次郎が、現在の荒川放水路(四つ木橋から堀切大橋の辺り)で農業用肥料の販売を行っていました。日常で使用する鎌(かま)、鋤(すき)、鍬(くわ)などの農機具の修理や販売に多くの需要があると判断し、一転、鍛冶の仕事に着手しました。農機具の鐵部分を加工するため、叩いて鍛えるためのアンビルが必要となりました。西村鐵工所の魂の原点であるアンビル(このアンビルは代々受け継がれ現在も西村鐵工所に保存してあります)が登場いたしました。
大正2年 創業
時は大正、資本主義の急激な発展に激変している時代でした。その資本主義の流れに乗り、機械化の流れが強くなると感じた初代福次郎と二代目徳太郎は、手作業で鐵を加工していた工程を、プレス機械を使い熱間鍛造による六角ボルト・六角ナットの製造・製作へとシフトしていきました。熱間鍛造六角ボルト・六角ナット製造・製作を行うため、大正2年(1913年)4月に東京都南葛飾郡隅田村に居を構え創業。西村鐵工所を誕生させました。資本主義の機械化の流れに、うまく乗った初代福次郎と二代目徳太郎の決断と行動でした。
昭和30年代
日本車両製造(株)東京支店が墨田区にあったことが縁で、日本車両製造(株)が埼玉県蕨市に工場を移転しても取引が継続し、昭和23年(1948年)ナット専業メーカーとして日本車両製造(株)の協力工場となりました。同年西村鐵工所も「合資会社 西村鐵工所」と組織変更いたしました。
昭和30年代、西村鐵工所も三代目栄太郎となったころは、六角ナットを大量生産販売する会社が現れ始め、納期や価格の勝負になってまいりました。しかし四代目晃一はこの大量生産の六角ナットの製品の品質に疑問を持つようになり、ただ早く安く作ればいいのか?製品の品質は追及しないのだろうか?いい製品をより安く提供するのならば、まだ理解できる。しかしこのころの大量生産の製品はお世辞にも良い製品ではありませんでした。四代目晃一の考えとは逆に、(製品の品質を追求しない)低価格で大量生産品にシェアを瞬く間に奪われていきました。
六角ナットからアンカーボルトへ
昭和38年(1963年)四代目晃一は、低価格の大量生産の六角ナット製造・製作に見切りをつけ一製品一製品を丁寧にそして高品質に仕上げ、信頼を置かれる製品を産み出すという事に拘りを見出しました。そこで六角ナット製造・製作の事業からアンカーボルト(特に橋梁用部品の支承用アンカーボルト)製造・製作販売に業務を転換させました。
昭和39年(1964年)東京オリンピックをむかえるに当たり、東京を始め日本国内のインフラ整備が急ピッチで進んでいたのも手伝いアンカーボルトの需要も増えてまいりました。低価格で大量生産の製造品ではなく、それ専用の高品質の製品が求められ始めました。
アンカーボルトという製品は、インフラ整備の土木用として用いられることも多いので、製品自体が大型化し母材料も太く重くなるため、工場と住宅が混在する地域(墨田区)にある製作工場では搬入搬出が困難となり、クレーンも必要不可欠になってきたため、昭和46年(1971年)橋梁部品製造の業務拡大に伴い、埼玉県越谷市に西村鐵工所の工場を移転させました。
インフラ整備の加速
“日本列島改造論”時の総理大臣田中角栄氏が打ち出した旗の基、日本全国でインフラ整備が加速いたしました。高速道路の高架化や様々な橋梁が計画、実施。その基盤部分に大型で高品質な支承用アンカーボルトが多用されました。計画も工事も急ピッチで進められ、当然それに伴う製品も猛スピードでの製造となりました。品質は落とさず製造スピードは上げて西村鐵工所の支承用アンカーボルトの出荷も増えていきました。
同時に護岸工事も進み、そこで使用するタイロッド(アンカーボルト)の需要も旺盛になりました。高速道路や橋梁の支承用アンカーボルト製造・製作に加え、護岸工事用大型タイロッド(アンカーボルト)製造・製作の需要が重なりましたが、決して手を抜くことなく「いいものを造れ!」の号令の基、丁寧に高品質のアンカーボルト製造・製作に励みました。
おかげで製品出荷の数と比例しながら製品の信頼性も加速していきました。ちなみに、西村鐵工所が最初に納品した支承用アンカーボルトは、昭和38年(1963年)7月16日開通した“名神高速道路 栗東IC-尼崎IC間で設置されました。
このように、時代に翻弄されるのではなく
その時代の流れに乗り、西村鐵工所としての強い信念
「いいものを造れ!」の言葉に恥じないよう、
“丁寧で品質の良いアンカーボルトを製造・製作する”
というDNAは長い歴史と共に現在に受け継がれています。